2006.11.1

 

藤竹 信英

(編集:菅原 努)

 

 

55. 東山三十六峰漫歩 第三十六峰 稲荷山(いなりやま)

 


 最終回

第三十六峰稲荷山(いなりやま)

 比叡山から稲荷山にかけての東山三十六峰を・寝釈迦・と形容した書物を以前見掛けたが、御足を投げだされたようで、あまり行儀のよいお釈迦さまとはいえないようである。稲荷山は標高230mばかりで、伏見深草の低地からこんもり盛りあがっている。この頂を三ヶ峰といい、東から一の峰、二の峰、三の峰とよぶ。はじめはこの山自体が御神体として崇められ、後に山上に社殿を造ったのが稲荷大社の起こりである。五穀豊穣、商売繁盛、招福徐災の神として、古くから人気を保ちつづけ、現在は全国で総数十一万といわれる神社数のほぼ三分の一の末社をもつという。ところで、稲荷大社の起源について二つが人口に膾炙する。その一つは、平安遷都の四十年程前、桂川のほとり「葛野県(かどのあがた)」に秦氏が住み、その長者の伊呂具(いろぐ)が今の稲荷山、その時の三つ山のふもとで興ずるままに、餅を的にして矢を射た。矢が的に当ったとみる間に、餅は三羽の白鳥と化して三つ山の上へ飛んだ。白鳥の降りた処は三つ山の頂の杉の木で、行ってみると白鳥の姿はなく三ヶ所のそれぞれに稲が生えていた。その日を境として伊呂具の家運は傾いた。そこで伊呂具は「人間の食べるものをもてあそんだ」ことを悔い、三つの峰に衣、食、住の神を祀った。とたんに家運が元にかえり繁盛した。これが最初に稲荷三社と呼ばれた「お稲荷さん」の起源という。もう一つの説は弘法稲荷説である。唐から博多に帰ってきた弘法大師が、路上で稲をかついだ上品な老人に出会う。大師が「京へ行く」というと、「わしも後から京に行く。力になろう」と老人がいった。京に帰った大師は嵯峨天皇から賜った東寺の境内に鎮守の神として八島神社を祀った。ところが、そこへ博多の老人が稲をかついだままの姿で、突然あらわれた。「この老人は神にちがいない。早まったことをした」と後悔した大師は、老人にしばらく待ってもらって、稲荷山に鎮座する地をみつけて移ってもらった。その間に二十日の日数を要した。今、稲荷大社の神幸祭が他の神社に例のない二十一日目の長旅の還御になっていること、それにお旅所が東寺になっていること、この二つが弘法稲荷説の証(あかし)となっている。

 拝殿の南に荷田春満(あずままろ)の旧宅と東丸(あずままろ)神社がある。春満は寛永九年(1669)稲荷大社の神官の二男として生れた。幼少から神道を始め、歌道、書道に秀で、三十一歳から江戸に出て多くの門人を集めて講義した。門人には賀茂真渕、本居宣長、加藤千蔭がいる。さて、信者が・お山する・というお山めぐりは、本殿左横の社務所前から頂上までの往復4kmである。石段ごとに並ぶ長者社、稲田社、蛭子社、八幡宮社、猛尾社など、末社に手を合わせながら白狐社を経て、大小の鳥居が約200mほどに及ぶ千本鳥居のトンネルをくぐる。そこを出ると命婦社。左に道をとって谷間ぞいに、こだま池のある四ツ辻までの参道は祭神が下山されてから造られたもので、それ以前にはここから峰伝いに東福寺へ出るのが正式の参道だったという。東福寺から五社の滝、白髭社を経て尾根伝いに四ツ辻への山道は、ハイキングにも最適のコ−スである。急な道が数分でなだらかな尾根にでると眼下に古都の全景がひろがる。清少納言もこの道を登って稲荷詣(もうで)をしたという。

 処で山を巡ると、稲荷の峰を埋めつくしているのは、明かるく、エネルギ−に満ちた朱色の鳥居の並列ばかりでなく、石で基礎を固め、その上に大きな自然石を置いたお墓とも供養塔とも付かぬ「お塚」の群に圧倒される。維新前、稲荷大社は神仏習合であったから、唯一神道を主張する稲荷大社と、同じ境内にある両部習合の愛染寺などとの対立は根深いものであった。慶応四年、新政府は神仏分離令を発したことから稲荷大社側は境内から仏教色を一掃し、愛染寺などは退散した。この時、受難したのは寺院だけでなく、日ごろ信心深く参詣した人々は一そう打撃を受け、なす術(すべ)を知らなかった。所が皮肉にも昨日まで神社の管理だった所が、今日急に国有地になったために、伝統的な「塚」の周辺に神社の意向が届かなくなった。そこで信者達は自己の信仰的な不満を満たすために、競って伝統的な「塚」の附近に「私製の塚」を据付けた。一方、伝統的な「塚」即ち「神蹟」の破壊を恐れた神社側は、ともかく七神蹟だけは護持せんものと、神蹟標示の標石建立を官に願い出て、明治十年に許可を受けたのであるが、この工事が進行するのと平行して、「私製の塚」の据付けも益々増したのである。現在、一般の参詣人には、伝統的な「塚」と「私製の塚」の区別が付かぬきらいがある。一般の参詣人が「私製の塚」に小さな鳥居を奉献するという笑い話のような出来事もあった。稲荷大社側でも、参詣人から「どのお塚にお参りすれば一番御利益がありますか」と問われて、返事に困るという。

 枕草子の第百五十三段・うらやましげなるもの・を繙けば、清少納言の稲荷詣にゆきあう。

 「稲荷におもいおこして詣(もう)でたるに、中の御社(みやしろ)のほどの、わりのう苦しきを念じ登るに、いささか苦しげもなく、遅れて来(くる)と見る者どもの、ただ行きに先に立ちて詣づる、いとめでたし。二月午(きさらぎうま)の日の暁に急ぎしかど、坂のなからばかり歩(あゆ)みしかば、巳(み)の時ばかりになりにけり。やうやう暑くさえなりて、まことにわびしくて、など、からでよき日もあらむものを、なにしに詣でつらむとまで、涙も落ちて、休み極(こう)ずる」とある。

 ・稲荷神社に、一大決心をしておまいりしたところ、こちらは、中のお社の辺でたいそうつらいのを我慢して登っているのに、すこしも苦しそうなふうもなく、後から来た連中が、さっさと追い越しておまいりするのは、いかにも颯爽としている。二月の午の日の明け方に早々と家を出たけれども、坂の半分ほどを登ったところで、もう十時ごろになってしまった。だんだん暑くさえなって来て、心底から情けなく、どうしてまた、こんな日でなくほかによい日もあろうに、なんでおまいりになんか来たのだろうとまで、情けなさに涙もこぼれる始末で、疲れきって休んでいた・

 その時、四十を過ぎたほどの年輩の女で、壷装束(つぼしょうぞく)といったちゃんとした徒歩の外出姿ではなく、ただ腰の所で着物をたくし上げただけの格好のが、(女)「あたしは七度詣でをするんです。もう三度はおまいりしました。あと四度ぐらい、なんでもありません。午後二時頃にはもう家に帰ります」と、途中で会った人にしゃべって、坂をおりて行ったのは、普通の所なら目にもとまらないような女だが、この時ばかりは、今すぐこの人となりかわりたいと思ったのである。

 後白河法皇御撰の『梁塵秘抄』を見ると「稲荷十首」がある。

稲荷なる三つ群烏(むれがらす)あわれなり
 昼は睦れて 夜は一人寝

稲荷山 社の数を人問はば
 つれなき人を みつと答へよ

と見える。稲荷巫女の生態の一面を歌ったものであろう。

稲荷山三つの玉垣打鼓(うちたた)
 我願言(わがねきこと)ぞ神も答へよ

と激しく神に強要さえしている。

 稲荷大社の門前町を歩こう。お稲荷さんは五穀豊穣の神様。せっかく垂れた稲穂をついばむスズメは大敵。そこで大社の周りには「スズメの焼き鳥」を看板にする店が十数軒はあるだろう。老舗「稲福」では「それは俗説でしよう。大正時代が始まりです」とのこと。参拝者向けの店が開かれたのは明治末から。何を出しても飛ぶように売れる時代だった。

 面白いのは神具屋さん。檜で作った神殿が主力商品で、家庭用の小さなものから銅板ぶきの本格的なものまで揃っている。その他に、白蛇、「あ・うん」の狛犬、招き猫に福助までおめでたいものなら何でも揃う。

 伏見人形は稲荷詣での土産として、門前で販売される郷土玩具であるが、型づくりの素焼の人形に彩色を加えた素朴なものである。その材料の土は稲荷から深草にかけて産出する粘土を用いた。深草は古くから土師部(はじべ)が住んで、祭祀用の土器をつくり朝廷に献じたが、かれらがつくった土偶が発展して、伏見人形となったともみられる。元禄年間に発展し、文化・文政がもっとも栄えた。かくて伏見街道は五十有余の窯元と十数軒の販売店でにぎわったが、時代の推移による趣好の変化は如何ともし難く次第に衰微し、今は、・丹嘉・のみが古い伝統を継いで、こげ茶色ののれんを守っている。人形の種類は三十種にもおよぶが、いずれも往時の風俗、伝説、民話を人形化したもので、着想の飄逸なこと、奇抜・ユ−モアに富むところなど、抜群のできばえである。二つ、三つ、を披露する。『布袋』右手にうちわ、左手に袋を下げた像。毎年初午の日に買い求め、背中に火の字を印して荒神棚に祀っておくと火難を防ぐ。それを火防の布袋という。最初の年は一番小さいものを安置し、逐年大きいものにして行き、七体または十二体を揃えるとめでたく満願成就となる。万一、満願までの間に凶事があれば、それまで集めたものは全部川へ流し、あらためて小型のものから揃えはじめなければならない。『でんぼ』子供の遊戯用の菓子入れ。三枚の素焼き皿のふちを色どり、三つ重ねにしたもの。「丁稚でんぼ、稲荷の土産、落せば割れる」とうたわれた。『まんじゅ喰い』子供が、両手に饅頭の一片をもって立つ像。ある人、子供に向い、父と母といずれが好きかと尋ねたところ、子供はもっていた饅頭を二つに割り、「おじさん、どっちがうまいと思う」と答えた。これは石田梅巌の心学問答を人形化したものであろう。

 


 

追記:編者の手もとに残された遺稿のフロッピーはこれで終わりです。残念ながら一部が欠損して申し訳ありませんでした。最後が稲荷山ですが、私もせめて今度の初詣には伏見稲荷にお参りして、著者藤竹信英君の思い出にふけることが出来れば幸いです。長い間のご愛読有難うございました。