2006.9.1

 

藤竹 信英

(編集:菅原 努)

お断り:このシリーズは故藤竹信英氏が生前編者に送ってくれたフロッピーデイスクをもとに作成しております。本来ならば今回は第27峰霊山(りょうぜん)となるべきところですが、どういう訳か、27から33峰までのものが見付かりません。今回はとりあえず手許にある第34峰から続けさせていただきます。(菅原)

 

 

53. 東山三十六峰漫歩 第三十四峰 恵日山(えにちさん)と東福寺

 


 【 第三十四峰 】 恵日山(えにちさん)と東福寺

 恵日山を志すには、本町通の東福寺中門から境内に入る。ゆるやかな坂道を東にとり日下門を潜って本坊の東で左へ曲がると堰月橋(せんげつきょう)である。橋を渡って正面に龍吟庵(りゅうぎんあん)、東に即宗院(そくしゅういん)が控える。その裏の台地が標高70mばかりの恵日山の頂上である。即宗院は島津家の菩提寺であったから、慶応4年の鳥羽伏見の戦では、この山に砲列を敷いて幕軍を攻撃した。この戦で死亡した薩摩藩士の石碑と西郷隆盛筆の「東征戦亡の碑」を残しているが、現在、即宗院は門を閉ぢており、その有様を伺い知ることはできない。

 平安中期、左大臣藤原忠平はこの地一帯に法性寺を創建した。この寺は藤原氏の氏寺として栄え、盛大な頃には泉山の南から現在の東福寺のすべてを含め、鴨川べりまでの広大な寺領を誇った。藤原氏から分れて九条家を興した兼実(かねざね)も晩年法性寺の東北に山荘、月輪殿を建てて隠棲し、その敷地に報恩院という仏堂を営んで終焉の地とした。東福寺を創建した九条道家は兼実の孫である。はじめ道家は法性寺境内にささやかな一宇を建てようとしたが、計画は次第にエスカレートして、完成までに十九年要したので、道家は途中に没した。あとは嗣子頼経、二男二条良実、三男一条実経の努力により立派に完成したが、本家の法性寺は逆に衰退の途を辿ることになった。

 東福寺を訪れるには、南端の六波羅門から入るのがよい。門内に一歩を印すると右前方にそそり立つ三門には圧倒される。三門は室町初期の再建ではあるが、現存する禅宗の三門の中で、最も古くて立派である。この三門には殆ど壁というものがない。殊に一階は骨組みだけで、太い材木のむきだしの構成が、男性的で荒削りである。しかし、太くて厚い木材は、石や鉄とちがって、いかにも温かな息づかいをしている。そして、屋根裏や軒下の組物、雄渾に反った屋根、それに一直線に張った二階の欄干などがいかにも骨っぽくて力強い。なお、この三門のかなたに見える本堂は、大きな建築ではあるが、昭和の建物である。先の六波羅門から入った地点から左を見ると手前に東司(とうす)、その先に禅堂がある。ともに重文である。東司とは廁のことで、正面七間、側面四間、禅寺の廁の古い形式を伝える珍しいのもで、柱も太く、板も柾目である。どうしてこんな大きな廁をつくったのだろう。お坊さんは時刻がきびしいので、皆が一時に使う必要があったとも考えられる。禅宗では生活の一切が行(ぎょう)なのであるから、廁といえども立派な伽藍の一つである。

 東司のむこうには美しい禅堂がみえる。これは坐禅をするところで、十四世紀建造の最古最大の道場である。縦九間横六間、京都の唐様建築としてはもっとも古い。右手の三門と左手の禅堂とを、ならべて見比べるのは楽しい。ともに唐様といわれながら、その対照には驚かされる。禅堂は三門とはあべこべに壁が主になっており、その平面的なのが極めてよい。三門の右には浴室があり、室町末期の蒸風呂である。廁に比べて風呂はひどく小さい。けれど、これも立派に伽藍の一つである。

 境内の北側には「洗玉潤(せんぎょくかん)」と呼ぶ渓谷がある。この谷に茂る楓樹は葉が三つに分かれ黄金色に変るのが特長で、「通天紅葉(もみじ)」と呼ぶ。聖一国師が宋より將来せるものと伝え、現在三千本を擁する。此処に開山堂に渡るための通天橋という屋形橋が架かる。頼山陽の詩に、「踏み過ぐる一渓紅錦の雲」の一節を見る。通天橋を中心とする開山堂へ行く渡廊の柱列は美しい。大和初瀬の長谷寺の登廊を思い起こす。開山堂の楼門を入ると、江戸時代の枯山水と池泉の小さな庭園が道を挟んである。禅院庭園と武家書院庭園をあわせもつ、珍しい庭である。

 開山堂の西側には塔頭万寿寺から移した単層?(こけら)葺きの八角円堂がある。愛染堂と呼ぶ和唐両様を折衷したかわいい建物である。さらに西側にはこの寺建物としては一番古い鎌倉時代の普門院の総門がある。月下門と呼ぶ。もと内裏にあった月華門を寺に寄進したもので檜皮葺、朱塗の優雅な構えである。この門は紫宸殿前庭に通じたから、昔は、さぞ多くの殿上人達が往来したことだろう。今も禅宗様の重厚な建物ともよく調和して、独特な雰囲気を醸し出している。

 此処から引き返して今度は方丈の庭園を拝観しよう。庫裏から入って方丈に向う右側の最初の小庭を北斗の庭と呼ぶ。北斗七星をかたどり、七個の円石を並べる。北側には小市松(しょういちまつ)の庭がある。方形の小板石を市松に並べる。西側は井田(せいでん)市松の庭、やや大きな角石を並べる。なんの変哲もない幾何図形の庭で、現代造園家の作品だという。不思議にこの寺に似合う。何故だろう。それが禅寺の禅寺たる所以なのか。最後に、最初に入った日下門を出て、塀に沿って北の塔頭群の方へすすむと、洗玉澗に架かる臥雲橋と呼ぶ屋形橋に会う。新緑、紅葉を問わず、この橋からの通天橋を望む趣きは他を絶するものをもつ。たとえば、秋雨のなかで、両岸の紅葉が朱色の流れとなって、音もなく洗玉澗にそそぐなど。