2006.4.1

 

藤竹 信英

(編集:菅原 努)

 

48. 東山三十六峰漫歩 第二十二峰 円山

 


 【 第二十二峰 円山 】

 東山連峰の中に円山という「山」はない。現実には「第二十二峰円山」は長楽寺山の裾野というのが適切である。その「円山」という名は公園の東北に位置する慈円山(えんざん)安養寺の山号に由来する。この寺は平安初期に最澄の創建と伝え、慈円、法然と高僧が教義を広めた。鎌倉時代、国阿上人が入山してから時宗に改め、応仁の乱で焼滅した。

 しかしこの寺が栄えたのは江戸時代に入ってからで、徳川幕府の保護で諸堂を再興し、六庵の坊舎が建てられた。也阿弥、眼阿弥、重阿弥、左阿弥、連阿弥、正阿弥、これが六阿弥である。もともと時宗は僧俗の区別がなく、遊山客に湯茶の接待をするうちに次第に般若湯となり、客を招き始めた。その中で也阿弥は高台にあったので京洛が一望に眺められた。そこで重阿弥、連阿弥を合して京都一の洋風旅館「也阿弥ホテル」を建てたが、明治32年3月25日全焼した。そこで道路を隔てて南の正阿弥の地に架橋して大ホテルを再建したが、同39年4月18日午後再び出火して烏有に帰した。市中どこからでも見える火事で、硝子窓が西日に映えてヒラヒラ落ちる様は印象的で、その間、知恩院の大鐘は絶えることなく乱打された。その後は一切が御破算になり、六阿弥は左阿弥一つだけになった。

 織田信長の弟長益は豊臣方の老将で大阪冬の陣の後、身を引いて有楽斎と号し茶事を専らとした。その次男頼長は同じく冬の陣後、この円山にきて左阿弥を建て剃髪して雲生寺入道道八と号し、ここに住み父に茶事を学び風月を友とした。山腹の地を利し楼閣、庭園を自ら指揮して作った。それは今も存在する。

 円山の繁盛はこの六阿弥の存在に依ることが大きい。下河原の山ねこと云った妓は、太閤の北政所の養成した女達で寛永元年北政所死去後、女達の処置を考えたものとも思われる。だから気品を貴んだと云われる。芸妓という名は文化以後だという。

 四条通の突当りに将軍塚の翠緑を背に浮ぶ丹塗の八坂神社の楼門の見えるのは京都らしい風景である。私たちは普通この西楼門から入るのだが、元来この社は南の下河原通から入るのが正面なのである。正面に立つ大きい石鳥居は正保三年(1645)の建立で、石鳥居の中では一番大きい。鳥居内には二軒茶屋があって参詣者に親しまれたのであるが、今の中村楼はその名残である。新しい楼門を入ると拝殿の北に本殿の荘重な檜皮葺の屋根が見える。世に祇園造と呼ばれる特殊な形式である。正面に三間の向拝があり桃山の名残を示す立派なものである。

 大晦日の夜はおけら詣りで雑踏し、火縄におけら火を貰って帰るのであるが、本当は元旦未明の寅の刻(午前4時)に行われる削掛の神事の時に行き合わさねばならぬ。新年の第一火を神前に供え、奥深い神殿の中にゆらぐこの浄火を削掛の木に移し、参詣の人々の前に投げ與えられる。神秘を包む闇に散る火の光は印象的である。この火を頂いて元日の雑煮を作ると疫病を免れるという。         

 東の鳥居を出ると円山公園で、小高い丘の上に有名な枝垂桜がある。八坂神社は明治以前は天台宗感神院が祇園社として管理し、この桜の辺りまで感神院の坊が建ちならんでいた。さて、執行(しぎょ)建内繁継は祇園社の境内にあった枝垂桜を貰い受け、自坊に植付けたが、慶応2年(1867)、茶屋の失火により自坊宝樹院も類焼した。明治になって神仏分離し祇園社は独立して八坂神社となり、感神院の坊はすべてなくなった。明治6年、京都府権大属明石博高は伐採廃棄されようとしているこの大きな枝垂桜を金伍圓也を投じて買受けたところ、そのままここに美しい花を咲かせた。日露戦争の明治37〜38年頃には枝も四方に張り、巨幹繁枝高く天をつき、花の爛漫の候にいたれば夜桜とて人みな夜の艶色を賞し、夜々観花の客ひきもきらず、篝火暗を照して花、火と相映じ酔顔紅裙相照して亦燃ゆるが如き有様であった。

 しかし樹令参百年という老桜は昭和22年遂に枯死し、23年10月20日、「惜別の会」が催され、献香献花、神戸(かんべ)市長の別辞、吉井勇氏の「老いらくの 桜あわれと思えども もののいのちは せんすべもなし」の別惜の歌もよまれた。予め佐野藤右衛門氏がこの一世の種子をとり、実生せられたものを二代目として樹令貮拾年の若木に育て、昭和24年3月6日もとの場所に植えた。もはや五拾年を閲する。

「京の四季」

 春は花 いざ見にごんせ東山 色香あらそう夜桜に 酔も無粋ももの固う
 
二本ざしても柔らかう 祇園豆腐の二軒茶屋 みそぎそ夏は打連れて
  河原につとう夕涼み 真葛が原にそよそよと 秋は色ます花頂山
  時雨を厭ふから傘に 濡れて紅葉の長楽寺 思いも積る円山の
  けさも来て見よ雪見酒 そしてやぐらのさし向ひ

 「いもぼうの平野家」は枝垂桜の東の道を北へ知恩院南門前の西側にある小料理屋で、円山の 芋棒で知られる。古くから京の町屋では毎月一日、十五日にエビ芋とボーダラを煮合せ、家庭料理として知られている。青蓮院門跡に仕えた平野権太夫がこの辺に住み、エビ芋を栽培してすぐれていたので、客の求めるままにいもぼう家になったらしく、当主で十二代目という。一方、新京極花遊軒の芋棒も有名で一客拾銭であったという。安値が大衆の人気にかなったのであろう。今では芋棒は平野屋の名物となっている。値段も比較的安い。