2006.2.1

 

藤竹 信英

(編集:菅原 努)

 

46. 東山三十六峰漫歩 第十九峰 神明山、第二十峰 粟田山

 


 【第十九峰 神明山(しんめいやま)】

 三条蹴上の九条山の手前、京都市浄水場の向かいに日向(ひむかい)大神宮と青竜山安養寺の石柱が立つ。この坂道を登ると道は三つに分かれている。左が安養寺、真中が京都市営大日山墓地、右が神明道で日向大神宮に至るのである。坂道の右側は深い谷で山科区日ノ岡一切経谷町と呼ばれている。

 日向大神宮の背後の山が神明山であるが、大日山にも日向大神宮の社地が広がっている。天孫降臨の聖地・日向の高千穂から直接勧請された神を祀り、神明山の名の由来は内宮と外宮が伊勢神宮と同じ神明造りであることによるのである。屋根の棟の千木(ちぎ)と堅魚木(かつおぎ)には特色がある。なお境内の橋を渡って左手の目立つ大きな石は神の発現に関係のある神聖な存在で、つねに注連が張られている。影向石(ようごうせき)としてあがめられている。

 此処の新緑と紅葉のころの美しさは格別である。天明6年(1786)の『都名所圖會拾遺』にも「神木は南天、山茶花(さざんか)、八股杉、当山にあり。宇治橋、当山の入口にあり。坂道に桜、紅葉多し」とある。以前からの名所なのだろう。

 

 【第二十峰 粟田山(あわたやま)】

 粟田口は京都七口の一つで、その名はこのあたりが古くは愛宕(あたぎ)郡粟田郷と称していたからである。この粟田口は平安京以来、京都と東国を結ぶ交通の要衝であった。東海道は元来現在の三条通より一筋南にある狭い道筋で三条大橋を結んだ。粟田山は三条通の南に見える小さなふっくらとせりだしている山で、市街地にごく近いので、古くから京童(きょうわらべ)に親しまれてきた。

 京都一の神輿といわれる粟田神社の祭礼には十八基の鉾が出る。それは、この神社はもともと八坂神社とは兄弟社で、明治の廃仏毀釈までは八坂神社を感神院といい、粟田神社は感神院新宮と呼ばれた。境内に神社としては珍しい刀剣の絵馬が飾られている。この地は刀匠三条小鍛冶宗近の住居であったらしい。名刀「三日月宗近」の作者である。謡曲「小鍛冶」では、宗近が稲荷大社を崇敬し、一条院の勅命により刀を鍛えるにあたり、キツネの化身の助太刀をうけるのである。

 次に、寛永年間、陶工三文字屋九右衛門が粟田山の土で作った茶器が世に粟田焼と呼ばれ大いに喧伝された。この茶器は薄卵子色で細かい裂紋(ひび)が一面に入っている。そこで、もし毒薬などを投入すると忽ちその裂紋は黒色もしくは黄色に変色するといわれ、禁中、柳営(りゅうえい)などの高貴の人々の間で特に重用されたという。

 巨大なくすの木で象徴される青蓮院は、元来僧行玄が天養元年(1144)に開いた叡山東塔南谷の青蓮坊にはじまり、後に今の地に移った。伏見天皇皇子尊円親王は書道に卓絶し、粟田流書道はここより起り、近世のお家流の基となった。応仁の兵火、近くは明治26年の火災によって古建築は失われたが、由緒深い寺だけに上品な構えを見せている。

 なお、玄関傍に「療病院址」なる石碑を見る。これは明治5年(1872)11月、京都における最初の公立病院として、当寺院がその病舎に利用されたのを記念したものである。はじめ外国人医師を招聘して、府民の病気治療に従事せしめると共に医学生をも養成し、京都の初期医学界の進展に貢献した処である。而してこの地にあること9年間、明治13年には河原町広小路に病舎を新築して移転した。今の京都府立医科大学である。

 明治33年(1900)のことである。歌誌「明星」を創刊した与謝野鉄幹は、この年11月、新進歌人、山川登美子と鳳晶子とを連れて秋の京都に一泊の旅をした。その宿がこの粟田山の一旅館であった。三人は永観堂に紅葉を楽しみ、宿では文学を語った。当時鉄幹にはすでに妻があったが登美子に心をひかれており、登美子と晶子の二人は鉄幹に心を寄せていた。登美子は親のすすめる縁談をひかえての一夜となった。登美子の結婚通知状にそえた一首

    それとなく紅き花みな友にゆずり
      そむきて泣きて忘れ草つむ

翌年正月、傷心の鉄幹は晶子と二人で再び粟田山に泊る。そのとき、晶子の一首。

    御目ざめの鐘は知恩院聖護院
      いでて見たまへ紫の水

 現在の蹴上浄水場内にこの晶子の歌碑が建てられている。五月のツツジが満開のころに一般公開される。