2005.9.1

 

藤竹 信英

(編集:菅原 努)

 

41.東山三十六峰漫歩 第十峰 月待山(つきまちやま)

 


 月待山の麓を占める慈照寺は銀閣寺の名で世に知られる。総門を入って中門に至る白砂の参道の両側には、椿や樫の木の刈り込みの生け垣が続き、その足元を隠すかのように竹垣がしつらえられている。高さ三尺、押縁三本にした簡素なものだが、「銀閣寺垣」とよばれ、数奇者に好まれている。東求堂は単層入母屋造こけら葺の軽快な渋味のある建物で、義政の持佛堂である。東求堂と方丈との間に置かれた袈裟型手水鉢は、四角形の大きなもので、四面に線條彫刻を豪放に現している。

 銀閣寺の庭は洛西苔寺を意識して作られた。月待山に対峙するこの庭に月光が指すのは遅い。それだけに月が出ると格別である。古来「夜の庭」と称されてきた。そこでこの庭をいっそう夜の庭らしくするため、銀沙灘(ぎんさだん)、向月台という二つの砂盛りをしつらえて月光を反射させる工夫である。

 この庭に配して、清楚な姿を西寄りに見せるのが銀閣である。四間三間重層宝形造こけら葺の楼閣で、上層の内外は黒漆塗であ。義政はこの上に銀箔を置く計画であったが、実現しなかった。

 次に北白川阿弥陀石仏は吉田山の東北麓、今出川通をはさんで南北二カ所に分れている。南の石仏は旧道の道端に小屋掛けとした覆屋の中にあって、二体の石仏が並んでいる。なかでも右の石仏がよく、満月相のお顔はおおらかである。鎌倉中期の造立である。北の石仏は大きなもので、火災にかかったものとみえひどく摩滅し、首がとれていたのを継いだあとがある。

 此処に近い京都大学北部構内では昭和五十三年に平安時代末の火葬塚が発見されている。当時、貴人の遺体を火葬にすると、その火葬地をそのまま火葬塚とする方式があった。このような施設がつくられ、かつ土中に埋没して残されていることは、古代都市平安京が中世都市に変容する過程の一側面を物語るものである。京都大学としても深い因縁を感じざるを得ないのである。

 終りに清風荘に触れる。百万遍交差点の少し西の北側、田中関田町に位置している。明治、大正、昭和の三代にわたって政界に活躍した西園寺公望(きんもち)の京都に於ける別邸であった。近年、京都大学では住友家よりゆずりうけ、迎賓館としている。

 この地には享保17年(1732)頃作られた徳大寺公純(きんいと)の別業清風館があり、嘉永2年10月、公望はここで生れ、西園寺家の養嗣子となった。実弟春翠は住友家に入嗣し、吉左衛門と称した。住友家は本邸を譲り受け、名も清風荘と改め、実兄公望の京都に於ける控邸とした。四千坪にわたる広大な邸内の西北部に主家、東部・南部の大部分は池泉・築山・芝生の庭園とし、茶室と寄付き待合は西南部にある。主屋は公望の好みを入れて改築されているが、天井は九州佐野の様式を写したもので他に類例をみない。聚楽塗りの壁や板・襖等、珍重すべきものがある。また四畳半台目の茶室保真斎は創建当初のものと伝える。

 庭園は主屋の前に芝生を設け、浅く流れる池を穿がち、中島を置き、築山と樹林とを背景とする池泉廻遊式の近代庭園で建物とよく調和している。明治初年、小川治兵衛によって作庭された。

 

編者註:清風荘は昭和40年頃には京大の施設として学内の会議などにもよく使われた。私のそのころの思い出によると、庭の築山の彼方に借景として如意が岳の大の字が浮んで見事であった。ちなみに編者は大正の終わりごろ、小さい子供でこの近くに住み、黒い塀が長々と続いているあれが西園寺さんの別荘だよと教えられたのを覚えている。今では建物の老朽化が激しく、使用が出来ないと聞いている。