2005.8.1

 

藤竹 信英

(編集:菅原 努)

 

40.東山三十六峰漫歩 第九峰 北白川山

 


 北白川山は白川通から東方へ北白川仕伏町にかけての細長い台地である。その山麓に位置する北白川の田園地帯に、古都京都としてはまことにハイカラなスペイン風ロマネスク調の白亜の殿堂が出現した。昭和5年(1930)11月のことである。はるか西方に京都帝国大学北部構内を望む丘の上であった。此処に東方文化学院京都研究所、後の東方文化研究所がつくられた。この研究所の源流を遡るならば、明治39年創設の京都帝国大学文科大学の東洋学に到達する。

 文科大学といえば京都学派の存在を忘れることはできない。まず哲学が頭に浮かぶ。しかし哲学と並んで、いやそれ以上に世界に知られているのは「シナ(支那)」学である。シナ学という言葉は現在では使われなくなったが、その代りは「中国学」とでも呼ぶのであろうか。それでは嘗ての「シナ学」と呼んだ頃のスケールの大きさは少しも感じられない。

 この「シナ学」の中心になったのが京都帝国大学文学部(当時文科大学)である。君山狩野直喜、湖南内藤虎次郎を始めとする錚々たる研究者に事欠かなかった。従来の日本漢学のもつ粗大な演繹・歪曲といった偏向を改革し、中国自体の論理と美学によってのみその文明を研究し直したのが大きな功績であった。この「シナ学」の伝統があったからこそ、東方文化研究所が京都につくられたのであろう。

 ここで話題をロマネスク風殿堂に移す。この研究所は京都シナ学の殿堂となるべく内外共に理想の建築づくりが行われた。設計は工学部建築科武田五一教授に持ち込まれた。教授はこの仕事を大学院生、弱冠27才の東畑謙三に一任した。東畑はフランスのル・コルビュジェに心酔していた。「これは困ったぞ。反った屋根、しかも柱には竜を巻きつける。これではおよそコルビジュにはならない」と考えこんだ。武田教授には背けない。そこで苦肉の策として、研究所側の責任者の中心になっている文学部考古学講座の浜田耕作教授に体当りした。これが附いていた。教授は美術の専門家で建物に関する造詣も深かった。アッシジの聖フランチェスコ寺院やスペインの僧院のスケッチを画いて、こう言った「君、僧院の感じをうんと強調してくれたまえ。そうすれば気が落ち着いて、よい仕事ができるよ」と。このようにしてロマネスク風と呼ばれる極めてユニークな建物が出現した。 書庫も書架を積み上げて何階にも迫り上げる方式で、十萬冊の漢籍を収納し、その上五萬冊を追加する余裕をもっていたが、皮肉なことに現在では京大図書館中第一番の過密状態を託っている。

 閑話休題、京都のシナ学の名物教授の一人として内藤湖南教授に触れる。彼はとにかくすごい人物である。秋田県立師範を卒業して、二年間小学教員を勤めてから上京し、文筆をとって記者をしながらの独り学問であった。そのため新設の京都帝国大学に招かれた時、すぐには教授でなく、二年間は講師であった。これは湖南自身も悶悶たるところもあったと思われる。それ程彼の学問と見識は高く、論文も第一級のものであった。

 湖南の最初の講義振りについて西田直二郎(後の教授)が述べている。「教授の講義は印象的だった。持参の風呂敷包みを開き、机上に並べた参考書籍を渉猟しながら、低い口調でゆっくりと話しするように講義された。難しい満州語の多い清朝建国史はかくしてはじめられた。ある時、国史専攻の学生が冗談交りに『先生の講義を聴いておりますと、五里霧中の感じが致します』といった。先生はこの言葉を気にせられたのか、後に『どの教授が講義上手であるか』と聞いておられた。その後間もなく、哲学科の大教室で谷本富教授の『教育学及教授法』の講義を内藤先生が聴きにこられたのである。谷本教授はいよいよ得意になり『どうだ、内藤君!谷本の講義はうまいものだろう』といったそうだ」。 大学人となった湖南は長年の蘊蓄を傾けて、雄大にして且つ独創的な東洋史の体型を展開した。その結果、湖南は中国文化発展の全体像を次のように結論する。

 中国文化は一本の樹木が根より幹を生じ、遂に葉がでるように、文化がほんとうに順当に最も自然な形で発展したもので、一つの世界史を形成している。だから、日本人や西洋人が中国史の発展を変則的と見るのは誤りで、逆に日本や西欧こそが、他の文化に刺激され、また動かされて発展した変則的なものであると。

 湖南は日本文化成立の特色を指摘する。いわゆる「ニガリ」説である。日本文化はさきの樹木現象のように自らの力で成長するのではない。それは豆腐を作る時に似て、「ニガリ」の作用をもってはじめて文化の形に凝固するものである。過去において、この「ニガリ」の役を果たしたのが中国文化であったとする。この見地に立って、湖南は日本文化に関する数々の優れた説を発表している。その一つ、「日本文化史研究 (講談社学術文庫)はその洞察の深さにおいて同時代の類書中最高のものと思われる。(1997年記)