2003.8.5

 

藤竹 信英

 

16.平安朝の妖怪変化
  −その壱− 玉藻前(たまものまえ)

 


 紀元前11世紀の頃のことである。中国の殷の最後の王である帝辛(ていしん)は、一般には紂王(ちゅうおう)という名で世に知られる。それは、その悪行の故に人々がつけた呼び名であるという。この紂王の寵妃であった妲己(だっき)は、じつは千年の功を経た金毛九尾の古狐だったらしい。紂王の妾として召した寿羊(じゅよう)という美女を殺害し、その精血を吸い尽くして、その身体に入り込んだのである。王は妲己の意のままに、摘星楼(てきせいろう)なる高台を設けて、台上にて酒宴にふけり、挙句のはてに皇后を殺戮し、皇太子を流罪にした。さらに鹿台(ろくだい)という高楼では、池に酒を満たし、肉を懸けて林となし、これが酒池肉林という語のもとになった。そのうち、妲己はすべてに飽きて、まったく笑わなくなった。そこで王は、銅の柱を焼いて油を塗り、罪人を押しつけて焼き殺すの焙烙(ほうろく)の刑、多くの毒虫を入れた穴の中へ女を投げ入れて苦しみ死なせる蟇盆(たいぼん)の刑、その他、胎児の男女を当て合うため、妊婦の腹を裂くなど、ただ、妲己の微笑を得るために、紂王はつぎつぎと残虐の限りを尽くしたのである。こうして国を憂うる者はことごとく去り、あるいは死んだ。実は、この妲己の目的は世を乱し、人類を絶やして、この地上を魔界に変化してしまうことにあった。

 そこで、紂王を見限って領地に退き老死した西伯侯の志を継いで、その子姫発(きはつ)は都に攻めのぼり、諸侯はこれに従った。姫発の軍師はかの有名な太公望である。周の先公である太公が待ち望んでいたので、この名を得たという大人物である。かくして、紂王は火中に亡び、妲己は捕えられたが、死刑執行人は、妲己の妖しい微笑に魅せられて、首がきれない。太公望が雲中仙人から与えられていた、「照魔鏡」をかざし向けると、妲己は金毛九尾の狐の正体を現し、黒雲を起こして飛び去ろうとしたが、太公望の投げた宝剣で体は三っに斬り放されて地に落ちた。姫発は周の武王となる。後世、聖王の一人に数えられている。

 妲己の死後七百年を過ぎて、釈迦在世の頃、天竺(インド)の耶竭国の王子、斑足(はんぞく)太子は華陽夫人なる美女を愛し、その女のすすめるままに乱行、非道がつのる。同じ狐の精が働きだすのに七百年も待たずともよさそうにも思えるのだが、そこが昔のこと、人界の運も自然の運行に従い、魔道がはびこるにもそれに適った年のめぐりがあるというものである。ところが太子は、たまたま一匹の狐が庭園で寝ているのを見て弓で射たのである。すると翌日から華陽夫人が、頭の怪我がもとで寝込んでしまった。そして診察した名医耆婆(きば)が、夫人は人にあらず、怪物なり、と見破った。そこで彼は金鳳山中で手に入れた薬王樹(移狐樹ともいう)という神通力のある杖で夫人を打ち据える。たちまち夫人は九尾の狐の正体を現わして、北の空へ飛び去ったという。

 場面は再び中国に移る。周の武王から十二代、幽王の寵姫褒似(ほうじ)となって現れる。この美人がどうしても笑わないので、笑顔見たさに、王は非常の際に諸国の軍を集めるための烽火(のろし)を、ただいたずらにあげたのである。すると諸軍は忠実に急遽都に集まるが、だまされたと知って、あっけにとられる。それを見て褒似は笑う。それを見て王は喜こぶ。これを何度も繰り返したので、遂には、外夷が侵攻してきた時、本当の烽火を上げても、動く軍勢は全くなかった。そして、幽王は敵に殺され、褒似もまた首を撥ねられた。その後、諸侯の軍が到着して敵を追い払い、前皇太子を新王としなし、褒似の生んだ王子伯服を追放した。伯服は美人に化して行方をくらます。妖狐の精はこれに乗り移ったのである。

 千年がたって、唐の玄宗の頃、それは日本では聖武天皇の御代のことである。遣唐使吉備真備が日本へ帰国の船に、いつの間にか一人の唐風の美少女が乗船していた。玄界灘で気づいたので追い返しようもない。司馬元修の娘、若藻と名乗り、日本見物のため忍びこんだという。博多に上陸すると、たちまちにして姿が消えた。それから、三百数十年を経て、鳥羽天皇の御代、平安朝も末に近く、禁裏北面の武士坂部蔵人行綱の拾い児でと藻(もくず)いう美少女が宮中に仕え、たちまち帝を淫酒のとりこにした。皇后に皇子誕生という祝宴の夜のこと、突然一陣の風が灯火をことごとく消してしまった。その真暗闇の中で、藻の体から不思議の光線が発せられ周囲を明るく照らしたのである。これがいたく帝の御感に適い、藻の名の上に玉の一字を賜り玉藻前と名乗ることになった。ところが寵愛が深まるにつれて帝は病に悩まされ、衰えたまうばかりとなった。天文博士安倍晴明の五代の孫、安倍泰親(やすちか)が易をもって占うと、御悩みのもとは玉藻であり、彼女は人間でなくて妖獣であることが判明した。

 そこで、廷臣たちは評定の末、「泰山府君(たいざんふくん)」の祭を行って玉藻前の正体を暴くことになった。古代中国では、いつか霊魂の赴く処として各地の名山が当てられるようになり、そのなかでも山東省の泰山はその代表格をなしていた。この泰山の神は特に泰山府君と呼んで崇められ、その下には、泰山主簿、泰山録事、泰山伍伯など、それぞれ寿命台帳の管理、死者の拘引、冥界の統治にあたる属僚がいた。さらには仏教の地獄説と習合して、人間の寿命と福禄を支配する。天台宗の円仁が中国から勧請して比叡山麓に祀った赤山明神はこの神といわれ、素戔嗚尊や大国主神など日本の神祇とも結びつけられた。平安時代の宮廷公家の間で盛んに祀られたのみならず、鎌倉幕府でも武家がとくに頻繁に祭を行い、陰陽師安倍氏が最も得意としたものである。

 さて、満願の当日、帝の名代として玉藻前を清涼殿の斎場に拝礼させたところ、たちまちその形相変り、五体をふるわせ、艮(たつみ)の方に向って雲を呼び風を起こし、金毛九尾の狐となって飛び上がる。泰親が四色の幣(ぬさ)をとって投げつければ、青色の幣だけが玉藻のあとを追って見えなくなった。そこで、「青色の幣のとどまるところに妖狐は隠れている。幣を見つけて都へ届けでよ」との触れが回った。それは、安保元年(1120)のことであった。

 それから、十七年を経て保延三年、下野国那須の領主那須八郎宗重が那須野原に青色の幣が落ちているとの報告を都に寄せた。しかも那須野原は悪狐に荒らされているという。そこで朝廷では、三浦介義明と上総介広常の二名に狐退治を命じた。二名は犬を狐になぞらえて狐狩りの練習に励む。これが、後世の犬追物(いぬおうもの)という競技のはじめになったという。多勢の武士と勢子を使って、二名のつわものはようやく妖狐を射とめたが、妖狐の悪念はそのまま凝って石と化し、近くを通る鳥獣は邪気に当って斃れること多く、人も恐れて近づかず、殺生石(せっしょうせき)と呼んだ。

 数十年後、後白河天皇の仁安の頃、朝廷では名ある僧侶をつぎつぎと那須野に派遣して殺生石の教化(きょうげ)を命じたのであるが、皆が毒気に当たって斃れるばかりであった。最後に、やっと下野国示現寺の玄翁(げんのう)(源翁)和尚が来て祈願し、石を三度叩いて、「汝元来石頭(なんじがんらいせきとう)、性従何来霊従起(せいいずこよりきたりいずこよりたつ)」と誦して引導を渡したところ、石は二つに割れて白気立ち昇り西方へ散ったという。それからたたりは全くなくなった。これは元中二年(1385)八月十三日のことという。元中二年とは保延年度から二百五十年近くもたっている。石になってからも、ずいぶん永く猛威を揮っていたものである。これより後、石を砕くときに用いる大金づちを玄翁(げんのう)とよぶようになった。