2003.7.1

 

藤竹 信英

 

14.大江山の酒呑童子

 


   むかし丹波の大江山
       鬼ども多くこもりいて
     都に出ては人を食い
        金や宝を盗み行く

 いつの頃であろうか、大江山に棲む鬼どもが夜な夜な都に出没して女性(にょしょう)や童(わらべ)たちをさらっていくという事件がおこった。そのうち中納言の姫君が誘拐されるにおよんで、時の帝(みかど)は源頼光を召されて、鬼退治の勅命をくだされた。頼光は碓井貞光、卜部季武、渡辺綱、坂田金時の四天王に加えて、藤原保昌という豪のものの助けを得て、勇躍、鬼退治に向うことになった。まず、頼光と保昌は八幡の石清水八幡へ、綱と金時は難波の住吉明神へ、季武と貞光は熊野権現へと参籠を済ませた後、総勢六名は山伏姿に身をやつし、丹波国をめざして出立した。

 ほどなく大江山の麓に到着したが、肝心の案内役の男はふるえおののくばかりで、ものの用にたたない。致し方なく道案内なしで、突きたった峰をよじのぼり、深い谷に迷いながら進むうち、小さな岩穴に身を寄せ合っている三人の老人にめぐり合った。驚ろいている一行に、老人たちは今迄の数奇な身の上話をうちあけた。ひとりの老人は津の国からのもの、こちらの老人は紀伊の国、音無の里のもの、さらにあれにいる老人は京よりまいった、という。いづれも、妻子どもを酒呑童子にさらわれて失ったので、なんとか仇討ちしたい存念でやってきたのである。そこで、頼光たちの鬼退治への一助として、『神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)』という摩訶不思議な酒を差し出した。「鬼はいつも大酒をくろうています。酒呑童子の名のとおりでござる。この酒は役にたちますぞ」という。この酒はその名のとおり、鬼が飲むならば、自由自在に空を飛ぶ力をたちまち失うて、斬っても、突いてもするがままになるという。しかし普通の人間が飲むと、かえって力がつくという便利な酒なのである。夜があけて出立のとき、老人たちは頼光に星甲(ほしかぶと)と名付けられた立派な冑を贈り、「これを付けて鬼の首を斬られよ。決してお忘れなく」と言った。

 老人たちはしばらく頼光たちの先にたって、小野どもの棲む千丈嶽へ案内してくれたが、いつか姿が消えてなくなった。まもなく、一人の娘が泣きじゃくり乍ら、小川の流れに洗濯をしているのに出会った。これが都でさらわれた花園中納言のひとり娘であった。そこで、姫君の案内で川上に登ると、そこにいかめしい大門があった。鬼の城である。門番の鬼どもは、頼光一行をみて、「飛んで火に入る夏の虫。人間がたっぷり食えるぞ」と、酒呑童子のもとへ案内した。

 岩屋の奥では、鉄の杖を持った、赤袴で、ざんばら髪の酒呑童子が威丈高にどなた。「汝ら、この深山に天を飛んできたのか」。頼光はそしらぬ顔で、「われわれは山伏でござる。大峰山での修行も終えて出羽の国へと帰る道、せめて都を見たいと思うて、道を踏み迷うてしまいました。おかげで童子さまお目にかかれて、よいお土産ができました」、と弁舌さわやかに言いくるめた。童子はすっかり気をゆるして、手下に酒とさかなをふるまうよう命じた。ところが、手下が注いだのはただの酒ではなく、なんと人間の血であった。けれど頼光は顔色も変えずに、ぐっと飲みほして、盃を次の座にいる渡辺綱にまわした。綱も平然として飲んだのである。次にならべられたのは、いま切りとったばかりの人間の腕と股の肉であった。頼光はさっと腰の脇差を抜いて、自らその肉を切りさいて、さもうまそうに食べた。綱もおなじく主君に倣った。童子は驚きの声をあげて囃した。「なかなかのおかたたちじゃ。感心いたした」。

 そこで、頼光は三人の老人から貰った神便鬼毒酒をとり出して、酒呑童子の盃にどくどくと注いだ。それは不思議な酒であった。たちまち芳ばしい匂いがあたりにたちこめて、ひとくち口に含むと、それはとろけるような甘露の味がした。童子はつぎつぎに盃を重ね、そのうちに酔っぱらって、上機嫌で語りはじめた。もともと童子の生れは越後。山寺の稚児だった頃、苛められた法師を殺害して比叡山へ出奔したが、伝教大師に追いだされて、大江山へ移ってきたという。話が盛りあがったところで、神便鬼毒酒がきいたのか、酒呑童子はすっかり酔いづぶれて、奥の寝所へひきさがった。

 「さて、いまこそ!」、と、頼光たちは笈のなかに隠した鎧をとりだして身に着ける。総大将頼光のいでたちといえば、緋縅の鎧に、老人から贈られた星甲、それに「ちすい」と名付けた太刀を携え、堂々とのりこむ。四天王たちもいずれおとらず、山伏姿から、みごとな武者になり変り、あとにつづいておどりこんだ。「酒呑童子は!」、とながむれば、夕方からの姿とはうって変わって、身のたけ二丈あまりにのび、ざんばら髪よりは鋭い角が五本。熊のごときいかつい手足。それは身の毛もよだつ恐ろしい光景であった。頼光たちはどっと太刀をきらめかせて童子に切りかかった。神便鬼毒酒のためか、あっというまに頼光たちによって、酒呑童子の首は打ち落とされた。しかし、さすがは酒呑童子である。打ち落とされた首は、空中に高く舞いあがり、大きな口をあけて牙をむくと、頼光めがけてとびかかってきた。そのため頼光のかぶっていた星甲は、錣の六枚までが童子の歯でかみくだかれたが、七枚目は噛み切れず、酒呑童子の首はずしんと地面に落ちて息絶えた。そして戦いを終えた頼光たちは、この時はじめて、酒呑童子退治を成功させてくれた三人の老人が、住吉・熊野及び石清水の神々であったことをさとったのである。

 鬼に捕らわれていた人達を助けだした頼光は、まず村びとに姫君たちと一緒にいそいで都へ送り届けるようたのんだ。いっぽう、堂城という処に酒呑童子の首塚をつくった。しかし村にどんなたたりをするかわからないので、魔よけの笛をすべての村人たちにあたえたという。

 次に村の名もない神社に御勝八幡という名を与えて、村人たちに田楽踊りをさせて奉納した。村人は簓(ささら)を作って手ぶり身ぶりもおかしく演じた。いまも上野条の御勝八幡で、二十五年目ごとにやってくる祭礼に踊る「びんさら踊」として残されている。

 しかし、異説も数多くある。酒呑童子の首が、京の西の境界、丹波道の入り口である大枝山の頂に祀られたというのも一説である。

 比較的古いテキスト『酒典童子』によれば、頼光の一行が、酒呑童子をはじめ鬼の首七つを駕籠にかいて、大枝山を越えて桂川のあたりに到着すると、其処で勅使が鬼の首実検を行ったうえで、河原に於て灰に焼き、陰陽(おんみょう)博士の安部晴明が祓いのまつりごとをおこなったともいう。

 ところが、南北朝期か室町初期の作成とされる『大江山酒天童子』によると、その首は丹波道とは随分離れた所へ運ばれたのである。頼光一行が「鬼王の首」を随えて都に入ろうとした時、「毒鬼は大内へ入ることあるべからず」として、外郭の大路を迂回させられた。それにもかかわらず、天皇・上皇はじめ、摂政・関白以下、大勢が車を飛ばして、恐ろしい鬼王の一見せんものと集まったという。頼光が鬼王退治のさまを奏上すると、天皇の宣下があって、その首は、「宇治の宝蔵」に収められたのである。

 この「宇治の宝蔵」とは宇治橋南岸に設けられた平等院の宝蔵の謂(い)いである。その平等院は、藤原道長の別業、「宇治院」を伝領したその子頼道が、永承七年(1052)に別業を改めて、阿弥陀如来を祀る仏殿としたのに始まる。さらに阿弥陀堂(鳳凰堂)に加えて法華堂・多宝塔・五大堂・一切経蔵・不動堂・護摩堂・円堂などが、次々と建立された。しかも、その一切経蔵には、経典のみならず、摂関家に代々伝習されてきた数々の宝物が収蔵されていった。これを世に、「宇治の宝蔵」と呼んだのである。

 現在、平等院に詣でるならば、観音堂の「扇の芝」に源頼政の最後をしのびつつ、南に向かうと、池の上の鳳凰堂が午後の太陽に浮かび上がる。しかし、其処には藤原氏の呪宝の数々を収める「宇治の宝蔵」そのものの姿は見えぬ。すでに南北朝の動乱に焼亡に帰して、「鬼の首」の実否を問うことはもはや不可能である。