2003.2.1

 

藤竹 信英

 

12. 双ヶ丘のほとり:兼好法師あれこれ(1)

 


 双ヶ丘は雙丘・並岡または雙岡とも記される。花園の西方にある円錐形の三つの岡が南北一直線上にならび、双ヶ丘という。北の一ノ丘がもっとも高く、海抜116m。全山清松におおわれ、山頂からの眺望はすこぶるよい。そのためであろうか、丘には多くの古墳が散在する。古代人も現代人もその心根は同じなのであろう。一ノ丘の山頂にある古墳は巨大なもので、太秦の蛇塚古墳に次ぐものといわれる。古来、清原夏野の墓と伝えるが、最近の発掘調査によれば盗掘された形跡があり、七世紀前半頃の築造と推定される。内部からは須恵器の高坏(たかつき)、石棺の破片など古墳時代の異物に混じって、平安時代の緑釉陶器なども出土し、内部が再利用されていたことを伺がわせた。そこで、江戸初期の『雍州府志』などによる清原夏野墳墓説も、必ずしも無謀な付会ではなく、むしろ蓋然性を有する伝承とみられている。

 双ヶ丘の周辺は古来、天皇の遊猟地であったが、また貴紳の山荘地にもなった。なかでも右大臣清原夏野の山荘はその東南に地を占め、彼を双ヶ丘の大臣(おとど)とよんだ。山荘はのちに法金剛院となってその名残りをとどめている。これについては後述する。しかし丘の西方に営まれた左大臣源常(みなもとのときわ)の山荘は早く廃れ、今は常磐(ときわ)という地名に名をとどめるにすぎない。

 王朝時代には歌枕として多くの歌人によってうたわれたが、南北朝時代に兼好法師がこの丘に隠栖し、『徒然草』を著わしたことで、双ヶ丘の名を有名なものにした。この兼好は吉田神社の祠官卜部(うらべ)氏の出身で、吉田に住んでいたので吉田兼好(かねよし)といい、後宇多天皇のもとで六位蔵人(くろうど)までなったが、天皇の崩御により出家剃髪し、兼好と号するようになった。はじめ洛北修学院に隠栖したが、のち木曽に遊び、帰洛後は双ヶ丘の麓に庵を結び閑居した。また

契り置く花とならびの岡の辺に
     哀れ幾代の春をすぐさむ

とうたい、死後は骨をこの岡に埋めるつもりであったことがわかる。これは桜を植えてともにすごそうという、西行以来の隠遁者のもつ共通性によるものであろう。しかし、晩年伊賀の国司橘成忠に招かれ、国見山の麓、田井の庄に移り、貞和六年(1350)二月十五日かの地に於いて没した。年六十八であった。

 現在双ヶ丘の東麓、長泉寺の境内には兼好の墓と歌碑があるが、これは兼好を偲んで江戸時代につくられた記念物といってよい。なお、長泉寺では、毎年四月の好日をえらんで兼好忌が続けられている。

 『徒然草』の成り立ちについて、古来不可解な伝説がある。今川了俊は、足利氏の二代、三代に仕えた武将で、且つ冷泉家の歌風に立つ歌詠みとして聞こえたが、兼好法師の没後に、兼好の弟子の命松丸(みようまつまる)という歌詠みに行き会い、「なにか兼好法師の形見が残っていないか。あの法師のことだ。書き残した物でもあれば、さぞ面白かろうに」と訊ねたところ、命松丸はそれに答えて、「はい、お師匠さまは筆まめな方でしたが、一つも世に残そうなんていうおつもりはなかったようで、反古はそばから紙衣(かみこ)や何かに使ってしまい、残っている物といえば、旧(もと)の草庵の壁やら襖紙に貼った古反古ぐらいしかございませぬ」、「ほう、それは見つけものだ。面倒をかけるが、ひとつその反古を剥がして、わしに見せてくれんかの」。そこで、命松丸も、それはよい偲び草ともなり、またあれほどなお方の文字を勿体ない事だとも考えて、双ヶ丘や吉田山の旧草庵の物を丁寧に剥がして、やがて今川了俊の手元へとどけた。それは分厚い一ト束にもなる反古の量だったので、ふたりしてこれを整理翻読(ほんどく)したすえ、帖に編集したものが、すなわち後世に読み伝えられてきた『徒然草』になったという。この話は、室町時代の歌人、三条西実枝(さねき) (1511〜1579)の『昆玉集(こんごくしゅう)』なるものに記するところで、まこと、あったような、また、なかったような説話である。